教育という営みは、「ある人が、他人に可児かの働きかえをすることによって、相手の人間を、自分がこんな人間になってほしいと思う人間に変えてゆこうとするものである」(1)と言ってよい。教育という言葉には他人に対する働きかけを示す意味が含まれる。また、自分で努力し、自分を自分の欲する人間に変えてゆくこと(=自己教育)を示す意味も含まれている。教育は、生活環境すべてにおいて絶えず行われる行為であり、家庭、社会、あるいは学校もその対象となる。また、教育という営みにより、教育を受ける他者が人間的成長をすることは教育する側(教育者)にとって大きな喜びとなる。
商業教育は、教育の一分野、一形態で、「商業」と「教育」の二つの要素を含むものであり、両者の調和的統合にとって、はじめて成立する。
本来、商業という概念は必要品と余剰品の交換からはじまったと考えられているが、時勢の進展に伴い、現代資本主義社会において、商業は「生産と消費との連絡、調和を図ることにとって財貨の効用を高め、その価値を増大させるものであるから、商業もまた、生産を行なうものである」(2)と考えられる。
商業教育における「商業」という言葉の意味は、一般的に用いられる商業の意味とは必ずしも同義ではなく、むしろ、さらに広範囲に渡るものであるといえる。小売業、卸売業などのほか、金融業、運送業、保険業などの業種もサービスを販売・提供する「売買業」といえる。
「起業経営上の設備の問題、仁的配置の問題、労働能率増進や、企業間の競争対策の検討をはじめ、製造工場における原材料の計算から労賃計算、税務事務、企業の収支計算等、経営・経理・事務に関する仕事は、直接財貨の配給やいわゆるサービスに従事するものでなく、したがってその本質において商業そのものではないが、ビジネスという意味において商業の一局面と解すべきである」(3)とする見解がある。この初又の見解を受け、久松治夫は、「商業はビジネスであり、すべての産業を通じて必要な仕事上の分類としての商業である」(4)と述べているが、果たして「仕事上の分類としての商業」=「ビジネス」という視点で商業教育を実践することは、はたして有効的なのだろうか。
(1)梅根悟『中等教育原理』誠文堂新光社,1964年,p93.
(2)奥村恒夫『改訂版商業教科教育法』大明堂,1970年,p4.
(3)初又才次郎『新訂高等学校商業教科教育法』理想社,1971年,p27.
(4)久松治夫「商業教育の理念とその歴史的背景」『駒大経営研究』駒澤大学,1973年,p47.